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アートは時代のTranscreation③ 香港に誕生した新しいミュージアム「M+」

著者:長谷川 恵美子

2022.Apr.18

アーティストたちは、今私たちが生きているこの時代を独自のアンテナで捉え、解釈し、「作品」という形で表現します。アーティストが取り組むテーマは、社会課題から環境問題、人間の本質や価値観、国家や民族問題など千差万別ですが、誤解を承知で飛躍すれば、その創造活動は、「時代の創造的翻訳-Transcreation」作業と言えるかもしれません。アート作品を通して、私たちはこの時代の別の側面や気配に気づき、新たな思考やイマジネーションのヒントを得ることで、生きるということをより深く味わうことができると感じています。この連載を通して、「時代のTranscreation」ともいえる注目すべき現代アートシーンを紹介しています。

2021年11月12日、香港に新しいミュージアム「M+」(読み方:エムプラス)がオープンしました。コロナ禍の影響で訪問ができない中、先日、M+を紹介するバーチャルツアーに参加する機会を得ました。今回は、その内容も踏まえて、アジア最大の新しいミュージアムM+が呈する「時代のTranscreation」的意義について考えてみたいと思います。

M+の概要

M+は、20世紀と21世紀における視覚芸術、デザインおよび建築、映像、そして香港の視覚文化を収集、展示、通訳(interpreting)することに特化した世界最大級のミュージアムとして誕生し、収蔵品は6000点以上に上ります。

ビクトリア·ハーバーを臨む西九龍文化区に位置し、巨大なアルファベットのTを逆さにしたような建物は、スイスのヘルツォーク&ド·ムーロンによる設計です。その土台の部分は床面積17,000m2の空間に、33の展示室、3つの映画館、メディアテーク、ラーニングハブ、ビクトリアハーバーを臨む屋上庭園が設けられています。そしてタワー部分には、リサーチセンターやレストラン、M+ラウンジがあります。香港島側に面した外壁にはLEDが埋め込まれ、動画を映し出すことで、巨大なサインボードとして機能します。香港の最新のランドマークとしてM+が誕生しました。

M+実現までの道のり

M+について私が最初に聞いたのは、2017年のオープン予定の話。それからずっと延期が続いていました。紆余曲折があって、ようやく正式に完成したのです。

今回、改めて調べてみると、香港特別行政府による西九文化区(西九龍文化娯楽区)開発計画は1998年にスタートしたようです。香港がイギリスから中国に返還されたのが1997年ですので、その翌年のことです。予算約216億香港ドル(約3200億円)の巨大プロジェクトは、「当初デベロッパー主導で進められ、グッゲンハイム美術館やポンピドゥーセンターなど海外の大型美術館の分館を作るという構想もあった」とのこと。当時の状況を想像すると、美術館構想は、欧米の文化拠点を香港に置いておくことで、一国二制度を確実にし、本土からの思想的な抑圧を牽制する意味があったのかもしれないと思います。

けれども、「2006年頃より、市民を中心とした独自の美術館を求める動きが強まり、政府側もそれに応じる形で、20世紀から21世紀にかけての視覚芸術(デザイン、大衆芸術、映像、美術)に焦点をあてると同時に、香港独自の視点を重視した新しい美術館を建設する方針へ転換した。」(ARTit 2010年6月14日記事より抜粋)とのこと。この時期、中央政府寄りの初代行政長官が辞任し、二代目が就任。香港の人々の民主化を求める運動が始まった時期と重なります。香港に住む中国人としてではなく、香港人としての意識が高まった時期でもあります。このような時代背景の下、欧米とも中国本土とも異なる国際都市香港のアイデンティティの象徴としてのM+の方向性が打ち出されました。今回、当局からの圧力が当時より強まっているにもかかわらず、ほぼそのまま実現した形になっています。

一方で、当初発表されたディレクターは、著名な美術館の館長を歴任したヨーロッパ人男性でしたが、オープンした現在のM+の館長はオーストラリアでキャリアを積んできた女性のSuhanya Raffel氏、また副館長·チーフキュレーターには、アメリカとアジアで実務の実績のある韓国系男性Doryun Chong氏です。昨今の香港情勢を見ていると、M+の館長職についても当局から何か圧力があったのかもしれないと疑ってしまいます。欧米人ではない二人が運営トップに就任したことで、アジアをベースに国籍やジェンダーの枠を超えていることを具現化しているようにも見えます。

中核はウリ·シグ氏から寄贈の中国現代アートコレクション

M+のコレクションの核は、スイス人コレクターで元駐中国大使のウリ·シグ氏から寄贈を受けた中国現代アート作品のコレクション1463点です。2012年6月のアートバーゼル開催時に行われた記者会見(ARTit記事参照)によると、310人のアーティストによる1990年から2000年代に制作された作品で、艾未未(アイ·ウェイウェイ)、方力鈞(ファン·リジュン)、曾梵志(ゼン·ファンジ)、徐冰(シュー·ビン)など中国美術を代表するアーティストの主要な作品が含まれているとのこと。また、1970年代から80年代に制作された無名畫會(ノーネームグループ)、星星畫會(ザ·スターズ)などの前衛美術グループの作品を含む47作品は、1億7700万香港ドルで香港政府に売却されたとのことなので、こちらもM+のコレクションに加わっていると考えられます。現代アート市場での中国のアーティストの作品は、近年高騰しているため、予算18億円で1500点もの作品を買い集めるのは今では難しくなっています。

「シグのコレクションは、当時中国美術を収集する団体、個人がいなかったことから、彼自身の嗜好によるものというよりは、時代を沿ってあらゆるメディアの作品を包括的に収蔵しており、その点においても新たに開館する美術館のコレクションに相応しい内容であることは確かだ。」(ARTit 2012年6月14日付 記事より)

美術館がコレクションする意義

美術館のアイデンティティを決めるのは、その収蔵作品です。M+は、構想の当初からアジア各地で作品を幅広く購入していて、時々、「M+に作品が入ることが決まった」と日本のギャラリーのスタッフから聞くこともありました。もちろん、アーティストにとって、美術館に、しかもアジア最大のM+に作品が収蔵されることは、その作品が高く評価された上に時代を超えて継続的に大切に保管されるという大変な名誉なことです。アート関係者にとって、M+は香港ローカルのプロジェクトではなく、アジアの現代アートを支える最重要プロジェクトとして、認知されていきました。

また、日本を代表するインテリア·デザイナー倉俣史郎氏が設計し内装も手掛けた新橋の寿司店が、再開発で取り壊しの危機にあったところ、M+が店舗を丸ごと購入し、デザイン·建築の分野での収蔵品となったこともアート界では有名な話。この寿司店は、一旦分解して香港に運ばれた後、M+オープニングに合わせて再構築され、現在展示中とのこと。M+に収蔵されたことで、永久保存されることになりました。取り壊し寸前の一軒の寿司店に、歴史に残すべきデザインの価値を見ることは、時代を見据えたTranscreationと言えるのではないでしょうか。そして、私たちにとっても、新橋で寿司店として訪れたことがなくても、M+で倉俣氏のデザインを細部まで鑑賞することが可能となりました。

このように、M+のコレクションのスコープは幅広く、香港や中国に留まらず、広く網羅的にアジアを見ています。有力な美術館による作品収集は、時代の記録としての価値が意識されています。収集された作品は、文化的·歴史的価値が担保されることもあり、アーティストにとって、M+に作品が収蔵されることで、認知が広がるきっかけにもなります。欧米偏重主義から離れ、アジア独自の価値観が広く共有されることも期待できることでしょう。日本のアーティストにとっても、可能性が広がることを祈っています。そして、そのコレクションは、時代を経て、アジアの文化における歴史を紡いでいく大きな一翼を担っています。作品収集は、時代のTranscreationの作業の一環とも言えるでしょう。

香港の状況とM+

香港は、アジアにおけるアートの重要な拠点です。非営利団体のアートスペースやアートセンターなど研究機関もある一方、香港ローカルのギャラリー、欧米のメガギャラリーが支店を構え、世界的なアートフェアであるアートバーゼル香港をはじめ国際的なアートマーケットもあります。そこに、世界最大級の規模で現代アートを総括·牽引するミュージアムを設立するという壮大な構想は、アートファンの夢を掻き立ててきました。近年は、3月のアートバーゼル香港が開催される時期に合わせて、毎年M+主催のプレイベントが香港の街中のさまざまな会場で開催されてきました。毎回異なる視点を設定したキュレーションで、作家の国籍を超えた質の高い作品展示が行われていて、知的好奇心を刺激され、楽しみでした。

コロナ禍の2年間を通じて、香港の情勢も変化しています。体制を批判する形での言論の自由が認められなくなり、国家安全維持法が制定され、今年5月には行政長官も交代します。今回、M+のオープンにあたり、当局の指導の下、体制に批判的なアーティストとして有名なアイ·ウェイウェイ氏の展示作品を展示しています。当初の予定していた作品からは変更することになったものの、M+としては、アイ·ウェイウェイ氏の作品を展示すること自体がNGとなった訳ではない点に、希望を見ているとのこと。これまでは一国二制度の下、政治的なテーマを扱った作品の展示もあったのですが、今後の香港では難しくなっていくことと思います。さまざまな規制を超えて、アーティストたちは何を考え、どう行動していくのでしょう。直接的な表現を回避してメッセージを折り込むなど、時代のTranscreationがますます必要となっています。不自由な時代だからこそ、アートの表現が深化熟成していくのだと思います。これからも香港のアートシーンとM+の動向に注視していきたいと思います。

COLUMN

TEXT & EDIT: Emiko Hasegawa

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