JOURNAL

COLUMN

「創造的翻訳を探究するラボ」を立ち上げたわけ

著者:小塚 泰彦

2021.Jul.09

トランスクリエーションとの出会い

2017年初冬、サッチャー元首相の息子が上階に住むというロンドンでもひときわ目立つ外壁が全面イエローのフラットの一室でキーランと私は話し込んでいた。

キーランは後に私と共同経営者になる友人で、二人のキャリアが似ていることからフリーランスのコンビとしていくつか仕事を請け負っていた。二人で企業の製品やサービスのコンセプトやキャッチコピーを考えるのが常で、日本企業の海外展開案件がほとんどだった。

日本のブランドが海外でマーケティングをするとなると、イギリスならイギリスの、アメリカならアメリカの、日本とは異なる文化、歴史、社会情勢、メディアの潮流などを深く理解してその上で戦略を立て、翻訳したり言語化しなければニュアンスが全く伝わらないしマーケティング効果がないことをひしひしと実感しはじめた頃だ。キーランが流暢な日本語でおもむろに私にこう言った。

「こういうのってトランスクリエーションて言うんだよ」

その単語を耳にした瞬間、新卒から9年勤めた広告会社を辞めてわざわざロンドンに移住し、多くの苦労をしながらも試行錯誤して重ねてきた考えや経験などあらゆることが統合されて一本の輝く道となって目の前にあらわれたようだった。

閃光にクラクラしながらも間髪入れず私は「すぐにトランスクリエーションの会社をつくろう」とキーランに口走っていた。イギリスで法人登記を済ませたのはそれからわずか数週間後のことである。

ワードによるワールド

そういうわけでロンドンでトランスクリエーションの会社を創業してから、気づいたことがある。翻訳という営みがビジネスのみならず、人の生活の質や成長の幅に、あまりにも大きな影響をおよぼしているにも関わらず、あまりその重要性が意識されていないのだ。

「翻訳」というと、日本語から英語に変換するような外国語翻訳はもちろんその代表格だが、実はそれ以外にもかなり多くの翻訳がある。日本語を別の日本語に変換することもその一つで、意味や解釈を少しずらすだけで物事の価値が大きく変わったりもする。

例えば、高校時代に数学が苦手だった私が、数学を「宇宙の原理さえもあらわす言語である」と正確かつ詩的に解釈できていたら、当時から言葉が大好きだった私は数学を好きになれていたかもしれない。その一文に秘められた果てしないロマンは高校時代の超文系な私にとっての数学にたいする浅はかな印象とはまるで違うのである。

ワード(word:言葉)はたった一文字加えるだけでワールド(world:世界)になる。ワードはほんの一行でも壮大なワールドを織りなすことができる。優れた小説の最初の一文がその物語の世界観を決定づけるように。物語にある一文が人の一生を変えてしまう経験は、決して珍しいことではない。

一生を変えるには、たった一文あればいいのだ。それが、私たちのこの世界を良質に「翻訳」した意味を持っているとなおいいだろう。数式は宇宙の物語を読むための言語だとか、I love youは日本語で月が綺麗ですねだとか、ドブネズミみたいに美しくなりたいだとか、そういったことである。

創造的にわけをひるがえす

翻訳は「訳(やく)を翻(ひるがえ)す」ものだが、「訳(わけ)を翻(ひるがえ)す」ものでもあるだろうと私は考えている。なぜそうなのかという物事の「わけ=理由」や、それがどういうことなのかという「わけ=意味」は、必ずしも一定ではない。訳(わけ)は、多様に翻すことができる。そこに翻訳の創造的な醍醐味があるのだ。

意味や解釈を変奏しながら、新しいなにかをつくること。そう考えると、外国語翻訳以外にも、「翻訳」はあらゆる領域でなくてはならないプロセスである。

例えば、次のようなものを翻訳の一種として考えることもできるだろう。まだ見ぬ未来を言葉で描く。企業の歴史を紐解きビジョンを定める。地域の特性に合わせたおもてなしの作法をつくる。ふとした感情を振る舞いにする。えもいわれぬ感動を擬音語や擬態語で伝える。思い出を鼻歌にする。絶望を希望に変える。

人の暮らしは何かを何かへ変換する営みに満ちあふれているし、人は翻訳し翻訳されながら生きているのだ。

日本語とドイツ語で小説を書いてきた多和田葉子さんは『文字移植』の中でこう述べている。

---たとえば翻訳はメタモルフォーゼのようなものかもしれなかった。言葉が変身し物語が変身し新しい姿になる。そしてあたかも初めからそんな姿だったとでも言いたげな何気ない顔をして並ぶ。(中略)わたしは言葉よりも先に自分が変身してしまいそうでそれが怖くてたまらなくなることがあった---

人の思考は言葉で支えられ、言葉によって世界の多くを認識している。ならば言葉を変身させることでこの世界に生きる自分という物語を変身させることができるのかもしれないし、それは世界を自分なりに新しく認識し直すことでもある。

これはトランスクリエーションを仕事で提供していて実はよく起こることである。言葉を受け取ってくださる側の「これまで」と「これから」に明らかな変化があるのだ。一度そうなると、言葉はまるで白魔術の呪文のように受け手に働きかけ続ける。言葉が変わり、考えが変わり、行動が変わり、未来が変わっていく。そんな流れを私は幾度となく見てきたし、そこに働きかけることが私の果たすべき働きなのだとしたら本望だと思う。

ロジックとマジックのあいだ

学術的な翻訳学(トランスレーション・スタディーズ)を私は在野で少しずつ学びながらではあるが、翻訳という営みの可能性を探究して、気づきにあふれる場をつくりたいというのがこのラボを立ち上げたわけでもある。学術的な立場から見ると訝しいことがあるかもしれないが、ここは発想を大いに飛躍させる実験室なので、なるべく大目に見てほしい。

言葉によって人や組織が変わっていく。そのメタモルフォーゼの過程はとても創造的で、それをもたらす創造力に私はずっと魅了され続けている。その創造力は必ずしも「呪術師」にしか備わらないものではない。このラボではできるだけ多くの人にそんな創造力に触れてもらい、さらにそれを身につけられるような内容にしていきたいと考えている。

私がトランスクリエーションをはじめた頃に読み始めて以来、私の心の師である言語哲学者の井筒俊彦さんは「<気づく>とは、存在にたいする新しい意味づけの生起である」と書いている。2017年初冬のロンドンで、「翻訳すること」に新しい意味づけを私は感じ取ったのだ。彼が残した多くの著作の一文一文が、私に呪文をかけ続け、私を変身させ続けている。

言葉によるロジックとマジックのあいだを行き来しながら、きっと見えてくる新しいワールドをワードにして、ここから発信していこうと思う。

COLUMN

TEXT & EDIT : Yasuhiko Kozuka

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