眠くなる芸能?
コロナになる前、ある能楽堂で、英語による解説付きの演能という珍しい舞台があった。そこで、外国人向けに能の説明として、能楽師の方がこう言って見所(客席)の笑いを誘った。
”Noh is the most sleepy art” (能は最も眠くなる芸術だ)
たしかに、「能は眠くなる」とよく言われる。せっかく能を観に来たのに、眠ってしまったのではもったいない。そう思う人は多いかもしれない。また、眠くなってしまうくらいだから、自分は能に興味が無いのだろうと結論づけてしまう向きもあるだろう。
私は趣味として観世流で能の稽古を始めて以来、熱心な能ファンである。そんな「能が大好き」な私でも、観能中に睡魔に襲われ、こっくりこっくり眠ってしまうのは稀なことではない。こんなに能が大好きなのに眠ってしまうなんて・・・と、しばらくは自分を情けなくすら思ったものだ。
しかし能のことを知れば知るほど、そうではないという確信が湧いてきたのである。
体験の解釈を変える
能は人を睡眠へ誘う力がある。それは間違いない。ただ、私が考えるのは、その力には「意図」があるのではないか、ということなのだ。
能は眠くなって十分に観られない芸能ではなく、「眠りながら観る芸能」なのではないか。
観客を眠くさせて、朦朧とした意識状態へ誘い、潜在意識で観させる芸能なのではないか。眠っていても、謡いや囃子は耳に聞こえ、鼓の波動は体に響き、まぶた越しにゆらめく光の情報は視覚に入る。むしろ、睡眠状態で五感の境界をおぼろにさせて、感覚の交わる曖昧なところに「幽玄」を感受する何かがふわっと立ちあらわれるのではないか。
能は、潜在意識で観る芸能なのかもしれない。幽玄の美をあらわす能、とりわけ霊的な存在が登場する夢幻能は、あの世とこの世を行き来したり、僧の夢想の中の情景が描かれたりもする。人が顕在意識で観られないものを描くわけだから、人を眠らせて潜在意識で観させる・・・くらいの「意図」が、能を芸術として大成させた天才世阿弥にはあった気がする。
意味を読み替えられることを待っているものたち
眠い、というのは生理現象である。その現象にどのような「意味」があるのか。その意味を読み解き、新しい解釈を見出すことをしさえすれば、同じ現象でもその価値が変わる。意味を変えれば、それだけで目の前の世界は変わるのだ。
トランスクリエーションは、これまで価値が無いと思われてきたものや、価値を見出すのが困難なものなど、それらの意味を読み替えて新しい命を吹き込む力でもある。能に限らず、世界中には「その意味を読み替えられることを待っている」ものがたくさんあるはずなのだ。
COLUMN
TEXT & EDIT : Yasuhiko Kozuka