私の大切な友人が、がんになった。まだ若い女性だ。今年の春先、三月半ばの話。彼女はこう言った。
「現実を受け止められない。そして、怖くて治療に行けない」
家族はもちろん親戚や友人から一刻も早く治療に行くようにと何度も言われているという。担当の医師からはどうして病院へ来ないのかと怒られているのだとも。しかし、どうしても病院に足が向かない。
私は涙で言葉が出なかった。こういうとき、どんな言葉をかけるべきだろうか。
もちろん私もすぐにでも治療を受けてほしかった。ただ、この状況で、病院へ行ってくれと繰り返し懇願したところで彼女が行動に移すとは思えなかった。
ややあって涙もすこし落ち着いた頃、おもむろに私はこう言ってみた。
「あったかくなってきたから、病院行ってみたら?」
彼女は「なにそれ」とけらけら笑った。そして、またねと言って別れた。
次の日の朝。彼女からLINEが届いた。
「病院に行くことにしました。『あったかくなってきたから』って、なんか行く気になったので」
私は安堵の気持ちで満たされると同時に、とても不思議な感覚に支配された。「あったかくなってきたこと」と「病院へ行くこと」は論理的にはつながらない。でも、その非合理な言葉が人をたしかに動かしたのだ。
はたして、AIはこのようなアドバイスを出力してくれるだろうか。
緻密に徹底的に「非合理性」を設計したプロンプト(指示)を出せば、限りなく近い回答は出るかもしれない。しかし、当意即妙にその場の状況や人間関係をふまえて「ちょうどいい違和感」のある表現を出すとなると難しそうだ。
私は主にコピーライターとして言葉の表現を仕事にしてきた。ChatGPTやGPT-4などの言語生成AIが進化を遂げている今、言葉の表現の専門家として、AIとどのように共生するべきだろうかと考えざるを得ない。そんなとき、あの非合理なのに彼女を病院へ向かわせたメッセージが頭から離れないのである。
トランスレーションから「トランスクリエーション」へ
トランスクリエーションは、人間ならではの創造力の根幹である。「AIの創造力」が大幅にアップデートされた今、改めてそのように考えるに至っている。「人間ならではの創造力」をうまく発揮できるようになることは、これから地球上の多くの人にとって緊急性の高い課題である。
しかしながら、「トランスクリエーション」という言葉を耳にしたことがある人はまだ少ない。日本ではまったくと言っていいほど知られていない。実は英語圏でもかなりマイナーな単語だ。その主な理由は、この言葉が長いあいだ翻訳業界だけで使われてきたからである。
通常の翻訳(トランスレーション)では達成できないような、異なる国や地域の文化的背景や社会的分脈、現地の人の心理的傾向などをふまえて、より魅力的な形で伝えるために創作する翻訳術。それが一般的な「トランスクリエーション」の定義といえる。例えば、企業が海外で製品を売り出すときに、日本でそれが受け入れられているのとまったく同じようなコンセプトやメッセージを外国語に「正しく」翻訳したとしても、現地で見向きもされない場合はよくある。さらに、日本ではOKだったメッセージが海外では異なる意味に解釈されて、ブランド価値を毀損するリスクを伴うことさえある。「正しく翻訳すること」ではなく「人の心に届くように翻訳すること」はトランスクリエーションが担う仕事の主軸である。
私はこの「トランスクリエーション」という概念を拡張して、翻訳に限らず、あらゆる領域に応用した事業を行なっている。世界的にも珍しいトランスクリエーションに特化した会社を2017年にロンドンで英国人のビジネスパートナーと共同で創業した。そのときからずっと抱いているのは、「人類はみな翻訳しながら生きている」という想いだ。
翻訳は、外国語翻訳だけに限らない。たとえば、「いらっしゃいませ」という標準語を「おこしやす」という京都弁に変換することも翻訳の一種だ。また、インスタグラムで投稿する画像にハッシュタグをつけるとき、その言葉は画像を翻訳したものである。あるいは、レシピをもとに料理を作ることも、言葉を食事に翻訳したものといえる。これは私の勝手な拡大解釈ではなく、ロマーン・ヤーコブソンという20世紀を代表する偉大な言語学者の理論にもとづいている。
さて、先ほどの紹介した私の実話を思い出してほしい。
がんに罹患して、治療が怖くて病院に行きたくないという人に、院に行ってもらうために。どんな言葉をかけるべきか。
もちろん、唯一の正解はない。
「あったかくなってきたから、病院行ってみたら?」
これが、私が提出した一案だった。それは、私と彼女との人間関係、そのとき二人がいた場所の空気感、冬から春へという季節の変化、彼女の心理的な傾向など、いくつかのことをふまえて「すぐに病院に行って治療を受けてほしい」という意図を異なる形で伝えた翻訳だった。
その言葉は一晩かけて彼女の心理的な壁を超え、そっと心に届いたわけだ。すこし論理の歪んだ形で。しかし、すこし歪んでいるからこそ伝わる、そんなメッセージがあるのが現実でもある。
これは拡張された「トランスクリエーション」のほんの一例である。
なぜAI時代にトランスクリエーションが重要なのか
ChatGPTやGPT-4が登場してから、界隈は楽観と悲観の間で揺れている。人間は基本的に「言葉」で思考する生き物だが、「言葉」を自動生成するAIによって「自分で考えなくていい」ことの二つの意味が明らかになってしまったのだ。つまり、自分で考えなくていいから「自分が楽になる楽観」と、自分で考えなくていいから「自分が不要になる悲観」である。
「AIにできないことは何か」とGPT-4に問いかけると、主に二つの方向性の回答が出力される。
一つは、「現在のAIにはできない」というもの。
もう一つは、「AIには成し得ない」というもの。
前者はいつかAIで可能になると予想される能力だが、後者はいつまでもAIには不可能(であると現在は想定されているよう)な能力であり、それら二つを掛け合わせることこそが、これからAIと人間が共生するために求められる能力の核心だ。
「自分で考えること」と「AIには成し得ないこと」の重なるところにあるのは、人間ならではの創造力である。そして、人間ならではの創造力を生み出す有力な思考法の一つが「トランスクリエーション」であると思っている。
トランスレーションならぬ「トランスクリエーション」はこれまで翻訳業界で行われてきた。文化的背景、社会的潮流、人間の感情などを踏まえてより創造的な翻訳を生み出す技法で、主に広告・マーケティングの領域で翻訳者やコピーライターの仕事として取り入れられてきたものだ。
しかし今、翻訳業界から生まれたトランスクリエーションは、全人類の悲観を達観に翻訳する力を持っているのではないかと私は考えている。なぜなら、文化的背景の理解、社会的潮流の理解、人間の感情の理解などに関しては「AIには成し得ないこと」であるとされているからだ。
AIに取って代わられない人間の創造力
近年まで「人間の創造力はAIに取って代わられない」と耳目にすることがよくあった。ただ、その主張には「取って代わられない(でいてほしい)」という声にならない願いがそこはかとなく漂っていたようにも思う。私もそう願っていた節がある。しかし、このところ「AIの創造力」と「人間の創造力」の勢力図が否応なく激変してきている。この流れは不可逆だ。言語生成AIの飛躍的な進化にともなって、「取って代わられる創造力」と「取って代わられない創造力」の位置づけを整理し直す時が来ている。
AIが、十分に創造的だと思えるようなふるまいをする。この状況を悲観する必要はないと、私は思う。無闇にAIの創造力に怯えたり、無根拠に人間の創造力を信じたりするのではなく、それらの関係を捉え直すことで、改めて人間ならではの創造力を胸をはって発揮できるようになるはずだからである。
大幅にアップデートされた言語生成AIの登場以降、「言語生成AIの使いこなし方」は様々に喧伝されているし、「使いこなし方」自体も日を追うごとにアップデートされていく。言語生成AIの行く末についてはAIや量子コンピュータなどの専門家による解説や議論を追いかけたい。
そこで、意外と世間に声が上がっていないのが「言葉のクリエイター」からの観点だ。私は広告業界のコピーライターを出自に持つ、「多言語」に特化した会社の創業者である。経営者かつ言葉の専門職として、言語生成AIはとてつもなく大きな脅威だ。だからこそ、「AIに取って代わられない人間の創造力」については人一倍、認識を新たにし、今後の方策を身につけておかなくてはいけないと自戒している。
そして重要なことは、この状況が、言葉の専門職だけが気をつけていればいいものではないという点である。言葉を使って物事を考える人、つまり地球上のほとんどの人たちにとって、これは切実な課題なのだ。言葉の専門職からの提言は、言葉を使って思考する多くの人がこれからの時代を生き抜くヒントに、きっとなる。
COLUMN
TEXT & EDIT : Yasuhiko Kozuka