JOURNAL

COLUMN

目に見えない香りを伝える

著者:長谷川 恵美子

2022.Jun.15

香りは、目には見えないものの、感知した途端に、脳の奥深くで、本能を呼び起こし、記憶と結びつき、感情にさえも働きかけるという、不思議な作用があります。一方で、「基本的な匂い」という基準がなく、例えば「森の香り」で想起する香りが、誰しも同じとは言い切れません。香りを感知する嗅覚は、情動や記憶に深く関わる大脳辺縁系に直接的に伝わるルートがあるため、五感の中でも最も個人的で共有しにくい感覚と言えます。どのように表現すれば、香りとそれにまつわる体験について、人に伝えることができるのでしょうか。目に見えない嗅覚情報の共有のプロセスに、Transcreationの可能性を見つけてみようと思います。

香道における香りの分類

日本には、平安時代以降、独自に発展した香道があります。お香など心が落ち着く日本の香りに興味はあるものの、香道となると敷居が高く、ほとんど知識がないのが現実です。

今回調べてみると、香道では、香木を、五味六国(ごみりっこく)と呼ばれる分類法で香りについて判別するそうです。室町時代、香道の志野流家元初代志野宗信が、将軍家の持つ香木を選別·分類して、名香を選定するに際し、客観的な一定の基準が必要だったのでしょう。香木の含有樹脂の質と量の違いで、伽羅、羅国、真那賀、真南蛮、寸門陀羅、佐曽羅の「六国」に分類、そして、香りの質を味覚に例えて、辛、甘、酸、鹹、苦の「五味」に分解して当てはめます。香りを味覚に例えられても、甘い、酸っぱいはまだしも、辛いとか、苦い香りというのは、うまくイメージできないのですが、味覚も嗅覚も化学物質に対する感受性だと考えると、確かに理に適っています。目に見えない香りを、客観的な基準で分類することで、人に伝授することができます。香道が伝統を紡いでこられたのは、香りの評価の基準を次代に伝授できたことが大きかったのではないでしょうか。

そして、名香には名前がつけられています。例えば、〈楊貴妃〉と名付けられた名香は、六国が「伽羅」五味は「甘苦鹹辛」となっています。名香〈七夕〉は、六国が「真南蛮」五味が「甘辛」とあります。他にも、〈澪標〉〈寝覚〉〈月〉などがあります。中でも〈薄紅〉のように、香りが色の名前で表現されているのは、とても興味深いと思います。香りの名前は、その香りによって呼び起こされた記憶や情動から、イメージして名前をつけたのでしょう。そして香木を五味六国で分類することがtranslationだとしたら、香りに名前をつけることは、transcreation的な作業と言えるのではないでしょうか。名前をつけることで、香りによって感じられる世界観も伝えられることになります。

香道には、香木の香りを聞き、鑑賞する聞香(もんこう)の他に、香木の香りを聞き分ける遊びである組香(くみこう)があります。5種類の香りを聞いて、同じ香りの組を特殊な意匠で示す、源氏香もその一つ。香りを楽しむ伝統文化があるのは、ちょっと誇らしい感じがします。

ゲランのフレグランスと世界観

初めて出会った香水の話。今から約30年も昔、卒業旅行でヨーロッパに行った友人が、パリで有名な香水ということでお土産に、ゲラン(Guelain)社の〈ミツコ(MITSOUKO)〉をプレゼントしてくれました。シプレー系の香りで、マダム香水の典型だなと思った記憶があります。当時大学生だった私は20代になったばかりで、当然のことながら、大脳辺縁系でつながる記憶や情動もなく、その香りの良さが少しもわかりませんでした。以来、ずっと箱に入ったまま実家で眠っています。

ゲランは、1828年パリ創業のフレグランス&コスメティックの世界的ブランド。ナポレオンIII世のユージェニー皇妃のオーデコロンを調香し、ヨーロッパ全ての王族の御用香水商として確立した地位を築きました。〈ミツコ〉は、3代目のジャック·ゲランにより調香され、1919年に発表されました。世界の名香の一つとして、現在も販売されていて、ゲランのホームページには、〈ミツコ〉の香りの紹介文があります。

ベルガモットの爽やかなトップノートに続き、蜂蜜のように甘く香るメイローズ、奥深く魅力的なジャスミンがブーケのように漂い、情熱的な一面を描きます。ピーチのまろやかフルーティさを感じながら、ベースノートに移ると、そこには魅惑的なウッディとベチパーが溶け合い、スパイシーな香りが漂います。

この紹介文からなんとなく香りを想像してみてください。単に「ベルガモットとメイローズ、ジャスミン、ピーチ···の香り」と種類を列記するのではなく、「情熱的」「魅惑的」など、香り全体のイメージを誘導する言葉があり、時間の流れを追って香りが変化することが伝わることで、目に見えない香りの世界観を表現した記述になっています。transcreationと言えるように思います。

〈ミツコ〉は、当時のベストセラー小説『ラ·バタイユ』で、日露戦争激化の中、英国将校と秘密の恋に落ちるヒロインの日本人の美しい人妻の名前で、慎ましやかでミステリアスな中に、強い意志を秘めた日本女性のイメージを象徴しています。ジャック·ゲランが香りで表現したのは、ヒロイン〈ミツコ〉の見えない肖像とも言えるかもしれません。誕生から100年にわたり愛されている凛とした強さを表すフルーティ シプレー系の香り。20代の私には、この複雑な香りを受け止める感受性がまだ備わっていませんでした。50代の今なら、また違った感想を持つのかもしれませんね。

香水にとって重要なものは、香水の名前です。なぜなら、その名前には必ずブランドにとって重要なメッセージが秘められているから。ジャック·ゲランの調香した香水には、他にもサン·テグジュペリの小説から創作した〈夜間飛行〉(1933年)、日の出前と日没後に空が神秘的な青色になるひとときを表現した〈ルール·ブルー(L’Heure Bleue)〉(1912年)など、独自の世界観やストーリーをもつ香りが多く、名作揃いです。ただし〈夜間飛行〉(1933年発表)の香りの紹介文を読む限り、私にはちょっと強すぎるような気がします。

トップに香り立つグリーンガルバナムには、誰もがハッとさせられます。ハートはフローラルな香りの饗宴。スイセン、バイオレット、カーネイション、ジャスミン、ローズが、思いのままに気高い顔をのぞかせます。シプレーとウッディのエキゾチックさが瞬時に香る〈夜間飛行〉は、他の追随を許さない香りです。

ちなみに私は、30代の半ばごろ、4代目のジャン=ポール·ゲランが1989年に発表した〈サムサラ(Samsara)〉の香りに、はまりました。そして今は、1979年に発表したローズ系の香り〈ナエマ(NAHEMA)〉が気になっています。

最初に、数ある種類の中から選び抜かれたローズの香りが一気に押し寄せます。ハートにはヒヤシンスのフレッシュなグリーンノート。そして、ピーチをはじめ、イヴの時代から誘惑の象徴とされたパッションフルーツなどのフルーティな香りが広がり、サンダルウッドやパチュリの香りへと移ろいます。

ちょっと楽しみな香りです。

記憶につながる嗅覚

香りについて伝えることが難しい理由のひとつは、基準となる「基本的な匂い」というものが存在しないことです。匂いを発生する分子種は40万種もあるといわれ、私たちの嗅覚がそれをどのように嗅ぎ分け認知しているのか、まだ解明されていません。

また、嗅覚からの情報の伝達経路は、直接的に大脳辺縁系を経由し、記憶を司る海馬や情動に関係する扁桃体に作用することがわかっています。香りは目に見えないのですが、嗅覚によって感知された情報は、五感の中で最も記憶に残ると言われています。一般的に香りは、出来事や情景と合わせて記憶されます。「あの時と同じ香りがする」というように、思い出すのです。また、扁桃体は、情動行動だけでなく、ホルモン分泌や自律神経系の反応に関係しているため、嗅覚情報が深層部分で体調にも関わることがあるとされています。アロマセラピーが自律神経を整えたりする一方、香りが原因で不調を訴える人もいるように、個人差があるのが難しいところです。

近年はマーケティングにも香りが使われています。高級ホテルのロビーやブティックにさりげなく漂う香りに気づいたことはありませんか。香りで、ブランドの世界観をそっと伝えているのです。最近ではライブ会場でもアーティストをイメージした香りをディフューザーで流すことがあるようです。香りは、その時間や空間を共有した思い出とともに、海馬に記憶されます。そして後日、同じ香りに触れることで記憶が蘇ります。効果は未知数ですが、少しずつ香りを使ったマーケティングが増えているように感じます。

アリストテレスが『霊魂論』でヒトの感覚を、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感に分類したのは、今から約2400年も前のこと。絵画や音楽など、多くの芸術活動は、視覚と聴覚を中心に展開してきました。目に見えない香りをどのように伝えるか。嗅覚への働きかけは、まだ始まったばかりです。

COLUMN

TEXT & EDIT: Emiko Hasegawa

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