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COLUMN

ことばの冒険 6 – TRANS FORMATION — 言葉を超える場

著者:中山 慶

2022.Jun.08

トランスレーションとトランスフォーメーション

井上博斗さんという、岐阜の郡上を拠点とする、仙人のごとく深遠な眼差しを持った謡い手がいる。その方が主催するTRANS WORKというワークショップが、本当に素晴らしかった。

トランスとは、超えるということだけれど、普段トランスレーションという、異なる言葉や文化や音の響きを横断している自分にとっては、その範囲をひとつ広げて、動物や植物、あるいは、音そのものに「なり」つながるという経験は、新鮮でありながら、驚くほどの共通点も感じた。

肚(はら)と肚が出会う

世界各地の舞踊や祭り、武道や身体観を研究してきた井上さんが作る場には、シナリオはない。そこにその面子で生じる一回性のエネルギーを、どうつむいで深めていくかを、身体の変容という角度から見させてもらうのが、心地よい。

あぐらをかく、そこから立つ。また座る。その丹田の動きに、とことん意識的に。また、母音をただその音として出し、隣の人と朗誦する。和歌をゆっくりと、立ち現れる景色を感じながら詠みあげる。いざなったり、いざなわれたりしながら、場が立ち上がっていく。

例えば、人さし指と人さし指を2人でお互いぴたりと合わせて、お互いがいざない、いざなわれながら、共に動いてみる。相手の意図は何だろう、と、いわば身体のエネルギーに聞き耳を立てる行為は、普段通訳者が、会話や議論の流れが一体どこに行くのか、全集中で感じていることととても似ていた。そして、相手をコントロールしようとするほどにズレを感じ、それも手放していくと、ふとお互いが、いざなっているのか・なわれているのか、その境界が溶けるような感じになる。

井上さんは「これが1人でも、左右の指同士を合わせて、このいざないを動きにしていくと、舞になります 」と、動きを実演する。その場にあることで立ち込める感覚に気づき、そこから身体が動いてしまう。それはやってみると、驚くほど滑らかに、気持ちよく生じる。

また、人間は、音を言葉として発しながら、言語として意味を交換し合うが、今回は、シンプルな「あ」とか「え」とか「い」という母音を、みんなでただ一緒に発声していく。静かに目を閉じながら発する、あーーー、という音は、隣の人のその音と重なり、まるで読経か合唱のごとく、帯のような音の連動となり、全体に共有されていく。互いの音階や強弱の違いが、だんだんといざない・いざなわれ、場がととのう、という感覚を覚える。まるで、共に肚(はら)と肚が出会っているようだ。

それを発展し、あ・え・い・お・う、という発声を古武術の身体作法と混ぜながら、音そのものが持つ、開闢/開放や収穫/収束というベクトルを感じたり、さらに日本の和歌を、その一音一音を感じながら、粘く歌っていくという実践もした。

降る雪は かつぞ消ぬらし あしひきの 山のたぎつ瀬 音まさるなり 

意味や解釈を求めるのでなく、今までないほどに、ゆっくりゆっくりとその中で立ち現れる情景を見ながら、(共に)歌っていくこと。文字で書かれたものではない、音が作っていく世界そのものに、なりきり、目の前に広がる情景に居合わせること。それは、気持ちよいほどに没入的だった。

ヒト以外になる

最後の、なる、ということの極みは、木になってみる、というワークだった。「人間が動物として立つ、という感覚とは違う構えとしての『立つ』が、植物にはあると思います。その植物に、なってみる、という感覚。では根はどう生えるのか。幹は、枝はどう育っていくのか。それを体で試してみてください。」

種から芽が出て、木として立つこと。そして、その木が枯れ、死にゆくこと。それに、自分が実際になる、というのはまったくしたことがない経験だった。見れば、周りの参加者たちも、各々に、あらぬ姿になってうごめいている。

会場は京都の街中のお寺の畳間で、普段からもちろん外に漏れる音もあるだろうけど、この日は音においても画においても、道ゆく人はぎょっとして眺めたこともあったかもしれない。

人を超えるアイデンティティ

個人が個人でなく、溶けていくような、自分の野性も、爬虫類の脳も、すべての進化の流れを肯定できるような、とても深い、まさに“体”験だった。職業とか男性、日本人、または人間であるという普段のアイデンティティから、まるで自由に跳躍していくような。

四つ足の動物にも、ライオンにもキツネにもなれる。死ぬこと、苔むすことは決して怖いことではない。あの気持ちのいい大地そのものになっていくのだということ。それは、ケの日常や世俗に溜まる澱を清めていくようで、日本各地の祭りや芸能で行われた実践ともつながるのだろう。

異なるものにアクセスする技法

人間であることから、違うものに、なる、という経験は不思議な気持ちよさを伴う。それは、自分が日本語世界を生きる豊かさや深さを感じながらも、トランスレーションを通じて、英語や中国語の持つ思考法やもうひとつの深みに触れ、それらの音を表現することで、別人になれるような感覚そのものと通じる。

トランスフォーメーションというのは、形を変えながら、違う生命体や存在、時間軸にアクセスすることなのだろう。トランスレーションも、本来ならば、出会わなかった人であり、文化であり、視点をつなぐart技法という点では同じだ。

井上さんが語る深みは、それほど多くのことがいかに、井戸の下の方の水脈でつながっていて、言語や場づくりにも通じる回路があるかを、まさにその身をもって伝えてくれていた。

COLUMN

TEXT & EDIT : Kei Nakayama

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