I love you = 月が綺麗ですね
名訳である。夏目漱石による翻訳だと語り継がれている。英語教師をしていた漱石が「I love you」を「我君を愛す」と翻訳した教え子に「月が綺麗ですねとでも訳しておきなさい」と言ったという話になっている。しかし、実のところそれは口承でも文献でも確認されていないようだ。
それなのに、である。この逸話が明治時代からずっと語り継がれ、令和の若者でさえも「月が綺麗ですね」という表現をもって好きな人に愛を伝えることがある。史実かどうかはさておき、それくらい人の心を動かし続ける創造的な翻訳の名作であることは事実だ。
これは「トランスクリエーション」の代表例だと言っていいだろう。人が愛を伝えるときに、「愛してる」という日本語がふさわしい場合ももちろんある。一方、「愛してる」では妙に合わない、なんか違う、と感じられる場面も現実的にはたくさんある。そんなとき、直接的に好きな人を愛でるのではなく、月を愛でることで、間接的にその意(こころ)を伝えるというのはなんとも日本的な粋を感じる。
実は、英語で長年歌い継がれている外国の名曲にも「月」と「愛」をテーマにした表現がある。
「FLY ME TO THE MOON」というジャズのスタンダードナンバーだ。1964年にフランク・シナトラがカバーして爆発的にヒットした。新世紀エヴァンゲリオンのエンディングで使用されたテーマ曲として知っている人も多いだろう。
Fly me to the moon(私を月に連れて行って)
And let me play among the stars(星のはざまで遊ばせて)
Let me see what Spring is like(どんな春が来るんだろう)
On Jupiter and Mars(木星や火星の上には)
中略
In other words, I love you(言い換えるなら、愛してる)
歌詞の途中を大幅に割愛したが、全体を通して同じことが歌われている。「Fly me to the moon(私を月に連れて行って)」というメッセージが、言い換えるならば、「I love you」なのだと。
愛する人とたとえ遠く離れていても、夜空を見上げれば同じ月を眺めることができる。そんなロマンチックな存在である月は、古今東西、恋心や愛を伝えるために多くの人によって描き出されてきた。月にはまるで人の心を惹きつける引力があるかのようだ。
「I love you」を自動的に「愛してる」と訳すのではなく、「月」というモチーフを使って、別のかたちで表現する。そこには創造的な跳躍(クリエイティブ・ジャンプ)がある。この「ジャンプ」の度合いをどれくらいにするかは、目的に応じてチューニングが必要である。そのチューニングの仕方にこそ、人間ならではのセンスが問われるのだ。
人は自分のボキャブラリーにある言葉を使ってでしか世界を認識することができない。もし「愛してる」では自分の心が伝わらないとき、そこにはまだ無数の表現の可能性が残っている。ボキャブラリーが増えていくことで、世界を多様に創造的に描き出す道筋が増えていく。夏目漱石の「月が綺麗ですね伝説」は、彼の文学作品に引けを取らないくらい、人間の創造性に重要な気づきを与え続けてくれている。
COLUMN
TEXT & EDIT : Yasuhiko Kozuka